書くことだけじゃなく、どこかに行くにしろ、何かを食べるにしろ、漠然とした欲求や欲望がまず先にあって、そのあとに具体的なことを決めている気がする。

その欲望の感覚は、身体的なものだ。欲望に突き動かされて体がそわそわムズムズする感じ。

ラカンは欲望の原因を対象aと言ったけど、具体物があるより先に構造がある、というのをもっと感覚的に言い表すと上記のようになるのだろうか。

書くことに限れば、テーマが決まれば、無駄にそわそわしてあちこちのSNSを開かずに済むから、さっさと決まったほうがいい、という気持ちはある。だが、その寄り道のさなかにふと閃くことも往々にしてあるので、あながち無駄でもないのかも。白紙を目の前にウンウン唸るよりはいいのか?

以前の日記で、からっぽの衝動に背中を押される、みたいなことを書いた記憶がある。それもひとつの欲望だったのだろうが、そこに不安が混ざると、強迫的なものになるのかもしれない。

その不安は、鬱病だったからというのもあるが、「〜すべき」に強く囚われていたのもあるだろう。べき思考は、理解と納得が伴わなければ、毒にしかならない。べきベースで先回りして動くのは効率のためのもので、それは無名の他者からの命令のようなものだ。その命令ばかり聞いていては、やがて頽落するだろう。

べき思考に囚われているときは、これを無くしたら怠惰になるに違いないと強く思うものだ。だが、人間は退屈に耐えられるようには設計されていないので、なんかかんか活動はするのだ。(しなかったらそれは疲労か抑鬱だ)

このべき思考を頭から追い出すのに、認知行動療法もどきをやった記憶がある。そのときの日々の記録は、今の日記習慣の基礎にもなっているのかもしれない。

衝動自体は今もあるが、それは私を楽しいことへと導いてくれる力になった。不安が詰まっていたそこに、今度は何を入れようか?

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