「誕生日おめでとう」「あけましておめでとう」等と我々はよく言う。「おめでとう」とはなんだろう。

Claudeに、「誕生日を祝うのっていつから風習として存在しているんだろう」と訊いてみた。

誕生日を祝うという風習の起源は、意外と古くて複雑なんだ。
古代エジプトやギリシャでは、王や神々の誕生日が祝われていた記録がある。でも、これは「特別な存在」に限定されていたんだね。一般庶民が自分の誕生日を祝うようになったのは、もっと後のことだ。
ヨーロッパでは、キリスト教の影響で長い間、個人の誕生日を祝うことは異教的な習慣として避けられていた。むしろ洗礼日や聖人の記念日を祝っていた。誕生日が広く祝われるようになったのは、ルネサンス以降、「個人」という概念が強調されるようになってからだと言われているよ。
日本でいえば、明治以降の近代化とともに西洋の誕生日文化が入ってきた。でも広く一般に定着したのは戦後、特に高度経済成長期以降だね。それまでは「数え年」で年齢を数えていたし、個人の誕生日よりも正月にみんなで一斉に歳をとるという感覚が強かった。
興味深いのは、誕生日を祝うという行為そのものが、「個人性の尊重」という近代的な価値観と深く結びついているということだ。レヴィナスやデリダが問題にした「他者性」の観点から見れば、誕生日の祝福は、その人の唯一無二の存在を承認する儀礼とも言えるかもしれない。

誰かの誕生日は「今まで生き延びてくれてありがとう」「出会ってくれてありがとう」と思えるけど、自分自身の誕生日はどういう気持ちでいればいいのかよくわからない。いつかわかる日が来るだろうか。だがまあ、わからないままでもいいのかもしれない。この世に「この私」が存在している不思議さを味わうようなわからなさ。

じゃあ、新年のお祝いムードはなんなんだろう。

西洋、特にキリスト教圏では、新年は比較的「世俗的な祝祭」として発展してきた。クリスマスが宗教的な意味を持つのに対して、新年は「時間の区切り」を祝う、より人間中心的なイベントだった。カウントダウンや花火、シャンパンで乾杯といった派手な演出は、19世紀以降、都市化と大衆文化の発展とともに広がっていったんだね。時計が刻む「瞬間」を共有する、近代的な時間感覚の祝祭とも言える。
一方、日本の新年は神道や仏教と深く結びついている。年神様を迎える儀礼であり、穢れを祓って新たな一年の平安を祈る「聖なる時間」だった。門松や鏡餅、初詣といった習慣は、単なる時間の区切りじゃなくて、宇宙的・霊的な更新の儀式なんだ。静謐さや厳かさが重視されるのは、そういう背景がある。

こうして整理されると、西洋人というのは騒ぐのが好きなように見える。そして日本は西洋にかぶれていっている。

みんなが浮かれて騒いでいるからといって、私も同じように騒がなければいけないといった道理はない。壁際から祭りを眺めるくらいがちょうどいい。そういうふうに過ごせたらいいと思う。

少し前の私は、神なんか信じちゃいないのに初詣なんか行ったってしょうがないと思っていたが、今はそうでもない。こういう儀式というのは形が大事なのだ。内心がどうであろうと、行動が全てなのだ。こうした儀式が、日本人を日本人たらしめている。

別に日本という国が好きという訳でもないし、そもそも国家とかいう制度ってファッキンだしナショナリズムってキショキショだぜ、と思っているが、それでも日本語のことは好きだから、日本語話者として日本語の環境は守られてほしいと思う。

話を戻すと、「めでたい」は元は「愛でたい」で、祝うべきという意味だ。ちなみに、雅語では「りっぱだ」という意味になるらしい。では、「祝う」とは何か。めでたいことの喜びを言葉や行為で表すことが一番目に来るが、元来は幸福・幸運であるように祈ることを指すそうだ。(新明解第五版より)

そう言われると、納得できる気がする。年が明けましたね、今年もいい年になるといいですね。そういう祈りなのだ。

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