魂を撫でる
久しぶりに、とくに原因のない悲しさがやってきた。頭の中がぼんやりして、胸が締め付けられて、息苦しくなる。この感覚が、嫌いではない。例えるなら、電気をつけていない薄暗い風呂でぬるい湯に浸かっているような、そんな心地だ。
普段は、悲しみをその前にあった出来事と共に物語として理解するが、理由のない悲しみは物語が剥ぎ取られた「何か」をあらわにする。けど、言葉を与えることは物語を与えることだから、その「何か」は隠されてしまう。
悲しみと共に在るとき、時間は濃くなる。でも早くもある。他のものは遠ざけてしまって、私は私に寄り添いたいという気持ちになる。
それは、魂を撫でるようなものだろうか。悲しみの原因が外側に無いことによって、素直に内側を見つめることができる、気がする。
悲しみの手触り。普段は気にしない、あるいは忘れている「重さ」を感じる。手触りは、柔らかいというよりは、水のような変形しやすさ、だろうか。
ああ、つまり、私が最初にぬるま湯に浸かっていると言ったその湯は、魂のことだったのかもしれない。重くて、形が流動的な。
私にとっては、お風呂は安心できる場所で、水はずっと浸かっていたいものだ。だから、悲しみは冷たい水ではなく、ぬるま湯=体温に似た温度だったのかもしれない。何か繋がった気がする。
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