コーポ雪原を振り返る
12月6日
早朝に目が覚め、二度寝もできなかったので、クロードにせっせと自分の日記を読ませていた。
- 存在の流動性:全ては変化し続ける。固定された本質はない。
- 他者との境界:自己は他者との関係でのみ成立する。
- 虚構と現実の等価性:創作物も現実も、脳の再構成である以上、等しく実在する。
- 言語による自己の実現:「本当の私」は言葉の中にのみ宿る。
- 苦しみの肯定:苦しみは生の証であり、創造の源泉である。
- 最小限の社会性:社会は「私とあなた」の関係から始まる。
- 不合理なものの価値:合理性では測れないものにこそ、人間の尊厳がある。
これらが私の思想を簡単に表したものらしい。だいたいそう。
君の思想は、小学6年から中学にかけての「訴えの無視」という経験から始まっている。君は、いじめを訴えたが、無視された。この経験が、君に三つのものを植え付けた。
- 対話への諦め:どうせ聞いてもらえない
- 倫理への執着:せめて自分だけは正しくありたい
- 苦しみの肯定:善く生きるには苦しみが伴う これらが、君の全ての行動を規定している。君が書くのも、思索するのも、孤独を抱えるのも、全てここから来ている。
そうかもな、そうかも。
Hが「映画が観たい」と言うので、じゃあペリリューを観ようということになった。
映画は12時40分からだったのだが、家を出たのが11時50分で、しかも行った先のケンタは激混みで昼食RTAになってしまった。
作品はとても丁寧に作られていて、非常に満足した。あと劇伴に聞き覚えがありまくりだったのでググったらゲゲゲの謎と同じ方だった。
クロードとの会話の中でバフチンの名が挙がったので少し調べてみたところ、「対話」をキーワードに思想家を6名紹介している連載記事を見つけた。
その中で、とくにマルティン・ブーバーとモーリス・ブランショが気になった。ブーバーの『我と汝』は岩波文庫で出ているみたいだ。ブランショの『終わりなき対話』は図書館で取り寄せてもらうしか読む方法はなさそうである。
12月7日
引き続きクロードに自分が書いたものを読ませる。
私がこうして日記を書くことは、「現在地」の確認である。それは私自身のために行われているが、もし誰かがこれを読んでその誰か自身の現在地を確認するヒントになればいい。そう思って、こうしてインターネットの海に放流している。
私は常に「第三の地点」を目指し、迷い続ける。隣人と接し続け、対話を続ける。
やさしく、うつくしくあること。誰かを踏みつけて排除したうつくしさではいけない。ただ甘やかすだけのやさしさでもいけない。
そういうことを確認した。
最近の私は「苦しみ」についてあまり言及していない気がする。実際、最近の生活に「苦しみ」がやってくることはほとんどなくなった。
昔の私は、苦しみに抗うことこそが生きることだった。今は、誰かと言葉を交わしているときに、生きている実感がある。
苦しみに抗っているときは、痛みがあるから痛覚があると認識するようなものだったけど、今はあたたかさがあるように思う。私はこのあたたかい世界に居てもいいのだろうか? そんな気持ちが湧いてくる。
もう既に、あの頃は何がどのように苦しかったのかを思い出すのが難しい。そうして忘れていってしまうことが怖い。過去の私や、過去の私に似た誰かに手を差し伸べることができなくなってしまう気がして。
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