吸血鬼の恋人が死んでから千年の月日が流れた。
永い時間のなか存在し続ける吸血鬼にとって、千年はたったの千年である──はずだった。人間の恋人と出会う前の三千年よりも、この千年のほうが、吸血鬼にとってはずっと恐ろしいほどの長さに感じられた。
吸血鬼の恋人は、人間を愛していた。人間社会を愛していた。同時に、吸血鬼のことも深く愛していた。だから、彼女は吸血鬼に人間のことを教え、人間社会に連れ出し、吸血鬼と人間の間に立つことを選んだ。それは一筋縄ではいかないことだったが、それでも彼女はそれを心の底から楽しんでいた。
吸血鬼は変わった。そしてひとつの望みが生まれた。それは、人間になりたい、ということだった。いや、人間そのものには成れなくてもいい。ただ、人間と同じように生きて、暮らし、そして死にたいと思ったのだ。
恋人が死んだ後、吸血鬼は呆然と過ごした。朝が来て、夜が来て、また朝が来て──草木は成長し、枯れ、再び成長する。ただ、時が流れていく。
記憶力は誰よりも良い自信があったというのに、恋人の体温、吸血鬼を気遣う素振り、愛おしいと伝えてくる視線、そういった温もりが吸血鬼の身からするすると抜け落ちてしまって、朧げにしか思い出せない。恋人の欠片が消えてしまわないよう拾い集めるたびに、胸のあたりが切なく締め付けられる。こんな思いは初めてだった。
吸血鬼は涙を流さない。吸血鬼には人間のように血が流れている訳ではないから。そのような存在であることが、初めて恨めしく思えた。だから、悲しい気持ちのときは、空に雨雲を呼んで雨を降らせた。それを吸血鬼の涙の代わりとした。だから吸血鬼の棲むこの森は、仄暗くて湿っている。
その後は、ひたすら眠り続けた。長い長い微睡みの後、「ちょっと寝すぎなんじゃない?」と呆れる恋人の声が聞こえた気がして、吸血鬼はハッと目を覚ました。よく眠ってよく食べなきゃ、という恋人の口癖を思い出し、よく眠ったならば次は食事をしなければと館の外に出た。
人間の住む里を遠くから眺めたが、恋人のことを想うと彼らを食事にする気にはならなかった。仕方がないので、里の外れで飼育されている家畜を一匹だけ拝借し、代わりに金貨の入った袋を置いていった。
家畜は人間ほど旨くはなかったが、それでも久しぶりに得る栄養は吸血鬼に力を与えた。
食事を終えたあと、吸血鬼は鴉を飛ばして昔馴染の魔女に頼み事をした。
数日後、吸血鬼のもとに魔女がやってきた。
「ご機嫌よう、おじいさん。あなたの望み通り、今っぽい服を仕立ててあげたわよ。それと、こっちが今の人間社会が分かる本ね」
そう言って魔女は木箱を吸血鬼に手渡した。吸血鬼は木箱の軽さに驚いた。蓋を開けると確かに服と本が収められていたが、吸血鬼がずっと着ていたような厚くて重たい上着も、ざらざらした手触りの服もなく、知らない繊維で編まれた滑らかな服が綺麗に畳んであるのみだった。
「その服ね、化学繊維というもので作られているんですって。あなたが眠りこけている間に、自然哲学は科学という分野に変わったのよ。都市に行ってみなさい、灰色の大きな箱がたくさん建っていてすごいんだから」
「人間はずいぶんと変わったようだな。何年経ったんだ」
「そうね、だいたい九百年かしら。あなた、ずっと何をしていたの? 館の外に出ていないのは鴉から聞いているけれど」
「──ずっと、あの子のことを思い出していたよ」
吸血鬼は目を伏せた。魔女は目を細めて、ふうんと鼻を鳴らす。
「そう。せっかくまた街に行くのなら、新しい恋人でも作ったらどうなの。きっと気分が晴れるわ」
「新しい恋人だと? 馬鹿を言うな。私が愛するのは後にも先にもあの子だけだ」
「まあ、一途ですこと。でも、あなたのそういうところ、嫌いじゃないわ」
吸血鬼は、そうか、とそっけなく返事をした。
「さあさ、すぐに着替えてしまいましょ。最近の人間が着る服の流行り廃りは激しいんだから、この服もすぐに時代遅れになってしまうわ」
魔女は吸血鬼をぐいぐい室内へと押し込んだ。
言い伝えにあるように、吸血鬼は鏡に映らない。かつての吸血鬼は世話係の人間を従えていたが、今は居ないようなので、代わりに魔女が身だしなみを整えてやることにした。
(飽きないうちに続きを書きたい)