「恋愛への憧れ」という言葉を見て、私の恋愛に対する態度はどんなものだったろう、と考えた。

そもそも、恋愛とは何か。誰かの一番になりたい、欲望の対象になりたい、認めてほしい。物語の主人公になりたい。だがそれらは、恋愛でなくとも満たせる欲だ。しかしだからと言って、これらが恋愛的でないかというと、そうでもないように思う。

あえて恋愛とそうでないものを分けるとすれば、その「誰か」に明瞭な姿があるかどうかだろう。漠然としていれば承認欲求だし、特定の人物ならばそれは恋愛的と言える。あとは、互いに強く思い思われること、私と好きなひとだけの閉じた世界、相手とより長く共に過ごすこと、これらを求める気持ちがあるかどうか、だろうか。

そう考えると、私が恋愛を求めたことは、おそらく殆どない。恋愛要素のある主人公に自分を重ねたことはあるが、それはヒロイックな在り方への憧れであった。

他者に認めてもらうことはどうか。私は殊更親に肯定的な言葉をかけてもらった記憶はないが、さりとてひどく否定された記憶もない。だからだろうか、私のことは私が認めればよいという気持ちが強くて、誰かにどうこうして貰いたいという気持ちはよくわからない。もちろん実際に褒めてもらえれば嬉しくなるが、偶然貰えればラッキー、といった程度だ。

身体的な接触をしたいと思ったこともない。もちろんアセクシュアルかつロマンティックな恋愛もあるが、ここでの身体的接触は性的でない接触のことを指す。

つまり、私が幼少期に「恋愛への憧れ」だと認識していた諸々は、恋愛のフォーマットを借りただけの別のものだったことになる。

私はShipperだが、この「好きなキャラと好きなキャラが好き合っていたら嬉しい」というのは「恋愛への憧れ」の一形態なのだろうか。それとも別の何かなのか。確かに求めているものは「恋愛の物語」だが、そこに「この私」は居ない。カップリング創作において、この私は第三者、あるいは観察者として透明になる。しかし、恋愛は「この私」が明瞭に中心に居なければ成立しない。つまり、カップリング創作が好きだとしても、必ずしも恋愛に憧れがあるとは言えないのだ。

多くの人類が持っている「恋愛への憧れ」を持たないこと。これは何やら欠陥のように感じられるが、しかし幸いなことに、現代にはアロマンティックという概念が名称と共に存在している。つまり私はアロマンティックなのだろう。

ただ、アロマンティックという枠組みでは拾いきれないもの、はみ出すものも当然あるだろう。だから、こういった言葉は、謂わば仮住まいなのだ。とりあえず雨風を凌ぐための屋根だ。恋愛に興味がないことを欠陥や病だとする視線から守られるための屋根。

先ほど、恋愛とそうでないものと言ったが、恋愛的とされるものも恋愛ではない場所で叶えることはできる。なぜ、ひとはそれでもなお恋愛に憧れるのか。それは「恋愛は特別である」とする構造があるからだ。恋愛は生殖に付き物で、我々は生殖を肯定するが故に繁栄してきた。その特別さは、今や生殖の文脈の外側にさえ及んでいる。

ここで、とある人物から聞いた「恋」という現象についての語りを思い出す。恋をすると、その相手を四六時中考えたり、すぐに会いたいと思ったり、共に居る時間が特別に感じられるそうだ。それを鑑みると、「状態異常=特別な状態」としての恋愛はあるのかもしれない。

私はその感覚を体感したことがないからなんとも言えないが、その特別な状態がある限り、やはり恋愛は特別なものとして存在し続けるのだろう。

そういった構造的な特別さと、現象学的な特別さに支えられた恋愛至上主義を、ときに外側から面白がり、ときに批判すること。これが私のすべきことではないだろうか。

まだリアクションがありません

なにか思いついたら送ってね