ここではないどこかの誰かを愛する
ふと、思想を書きつけるのと小説を書くのは両立できるけど、日記と小説の両立はできるのだろうか、と思った。できなかないだろうけど、むずかしいんじゃないだろうか。そもそも、日記と私小説の差とは、なんだろう。現代日本のエッセイとは、畢竟、私小説のことではないか? パーカーをフーディと呼ぶようなものか。
日記は、いくら事実がベースだと言っても、エクリチュールとしてこの世に現れた時点で幾分かのフィクション性を孕んでいる。『違国日記』で、母親が遺した日記を読んだ朝が、本当かどうか分かんないじゃん、と怒りを抱いたのはそのせいだ。だから、日記と小説の違いは、これは事実であるという建前があるか否かになる。
私が生活の後に書き残すものが思想に偏るのは、事実を反復してもなんもおもんないじゃん、と思っているのだろう。もちろん、反復には差異が伴う。生活がそのままエクリチュールになるのは、原理的に不可能だ。それでも、これは事実であるという建前でやるのは、なぜか面白がれない。
あと、私は私の身の回りから何かをひとつ選んで注視するのが苦手なのもある。Seeはできるが、Watchができない。目の前の人物がどういう感情を示しているのかは声色で分かるから、顔に注目しない。だから書けない。発達としては逆で、顔を見てもなにも情報を得られないから、声色から判断することを選んだのかもしれないが。
それに、何かを書くのなら、「もしも」のほうが好ましい。もしもこんなひとが居て、もしもこんな生活があって、もしもこういうことを思ったら。ここではないどこか、それが私にとっての小説だ。
私にとっての鏡像は、物語の中にしか居ない。このひとのようになりたい、うらやましい、かっこいい。そう思うのは常にキャラクターだった。目の前に居るあなたは、私と比較するべきではない。比較する気もない。
誰かを愛するにはまず自分を愛しなさい、とはよく言うが、それはつまり、愛着とは相手と自分の同一化でありナルシシズムの変奏で、その基礎として自己愛がなければならない、という話だろう。私は私のことを愛しているが、しかし誰かを愛することはできない。誰にも愛着が湧かない。だから、自分を愛していると言い切れなくても、誰かに愛着を持てるのなら、それは愛するための一歩なんじゃないだろうか。
かつて二度、「あなたは博愛だね」と言われたことがあるが、それは違うと今なら言える。私は愛着を捨てて平等に接することを目指している訳ではない、そもそも愛着がないから平等になってしまうだけなのだ。私にとっての他者は、興味深いか、どうでもいいか、このふたつしかない。
でも、ここではないどこかに居る誰かのことは、好きになれる。不思議なものだ。嘘だからこそ真実として現れることもあるのかもしれない。
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